エントリー

2021年05月の記事は以下のとおりです。

結局昔と変わってない

  • 2021/05/19
写真はすみれぐみの積み木などの様子で、積み木はカプラといいます。近年は普及して珍しくなくなりましたね。フランスの松の木で作られていて、発砲スチロールみたいに軽い木です。

何の活動に際しても、なるべく子どもたちの自己肯定感が高まるような働きかけをしたいのですが、どんな働きかけが子どもたちの勇気づけとして最強なのでしょうか。

「がんばればできるよ」(条件付け)
「君が一番だ」(評価)
これらの言葉かけも自信を失わせる言葉ではないのでよいと思います。

ただできれば、遠足のときなど、「今日は一緒に来れてよかったね。」
食事のときも「今日は~さんとおしゃべりできてよかったよ。」などなど、所属感が実感できるような働きかけを、子ども集団が普通に動いているときに繰り返したいです。

ケンカが始まった、お友達の悪口が始まった、いじけてしまった、というようなネガティブな情緒が出てる間はメッセージを発してもなかなか心を閉ざしているので届きません。

これはそのまま大人でもあてはまることかもしれませんが。

難しい保育理論や深遠な教育哲学が主張していることは、こうした人間が集団になって暮らしていく場合の言わば当たり前のことを言っているに過ぎないと考えています。

特に大人の方が、競争社会ですから、ありとあらゆるネガティブな情報と破壊的な感情や考えの刷り込みが随所にあると思います。それはマスコミとか外部の環境の影響も大きいのでしょうが、なぜそうなのかはわかりません。

ただ、子どもたちに対する活動のネライや働きかけの方向は実は数百年間変わっていなくて、変わったと思われるのはほんの表面的なことだけだと思います。


いわさきちひろさんの絵5

  • 2021/05/18
年長さんの積み木活動です。岩崎保育園に置いている写真の積み木はドイツの幼稚園積み木です。日本ははっきりとした四季があるので、木に年輪がはっきり入って、積み木のピースにすると季節によって微妙にたわんだりしやすいのですが、ドイツの木は冬が長いからでしょうか、ピースにしても1:2:4の規尺は変わらず、変わらないために遊びは無限に広がります。
積み木活動の意味はこれからも触れていきます。

ビクトール・フランクルさんというお医者さんは、皆さんもご存知の第二次大戦で子どもからお年寄りまでの悲劇が起こったアウシュビッツ強制収容所から奇跡的に生き残って帰ってきたうちの一人でした。

そのフランクル先生が不思議なことを言っています。
「地獄のようなアウシュビッツ収容所から生き残ってきた人には共通点がある。それは体が強健な人でも、争いごとに強い人でもなかった。みんなで外の夜の暗い中、何もない収容所で下を向いているとき、たまたま水たまりに夜空の月が映った。その月を見て今日も月が映っているな、きれいだな、と思える人が生き残った。」

そんなの運に決まっているじゃないか、とも言われそうですが、フランクル先生は本業は精神科医です。単に主観的な感想を言っているわけではありません。極限状態での人の精神状況を仕事柄観察していました。

不思議な話のように思えますが、収容所で生き残った人というのは、絶望しにくい人、ととらえると理解できそうです。

それから収容所で見た月は単に月というよりも、月に重ね合わせて自分が肉親と月を見た思い出とか、そういう支えとなりそうな人とのつながりを持っているか、実際につながっているかどうかは別にして、一人であっても、人と過ごした記憶とかそういうものを持っているか、たくさんあるかどうか、が生き残る人かそうでないの境目だった、と考えれば理解できそうです。

ビクトールフランクルをウイキペディアで検索してその提唱していることを見ても難解すぎて私にはわかりませんが、月を見ただけで、自分を覆う犠牲者としての物語が少し違う色調に思える意味づけができるかどうかが、極限状態を生きることを左右する、とうようなことを言っています。

こういう家族でも友達でも人とのつながりを「所属」と呼びますが、実際に所属しているかどうかは別に、所属感、自分は他の人とつながりがある感じ、一人ではない感じ、誰かが見てくれている感じ、悪い人もいるけど良い人もいる感じ、イロイロ表現できますが、これが自尊感情、自己肯定感の正体です。

ですから自尊感情がある状態というのは、人より何かが優れている感情ではないし、争いごとを起こして勝利を目指すような感情でもないし、何をしてもちやほやと甘やかされている感情でもない。

きれいなもの、自然のもの、意図された絵本の絵などを子どもたちに環境として提供しようとしていることは、子どもたちは芸術家にしようというネライではありません。(結果としてその方面に開かれればそれはそれで嬉しいのですが。)

子どもたちには自己肯定感が高まる働きかけをしたい、ということなのですが、以上のことを踏まえると、具体的にはどのように子どもたちに働きかければよいのでしょうか。

続きはまた次回に。



いわさきちひろさんの絵4

  • 2021/05/17
ちゅうりっぷぐみのお友達がごっこ遊びしています。

お部屋の遊びのコーナーの作り方の中に、ごっこ遊びのための道具類は本物そっくりものではなく、見立て遊びができるようにしておく、というものがあります。
本物そっくりの電話よりも電話と見立てることができるものを置いておく、ということで、見立て、子ども本人のイメージとか想像の余地を残しておく、という意味です。

これはほんの一例で、子どもたちが自分でイメージする余地を残しておく、自分で開け閉めしたりする余地を残しておく、自分で元の場所に戻す余地がある、自分で何だろうと思って聞いたり調べたりする余地がある、こういった視点でお部屋作りを工夫しています。こういった工夫は細かく随所にちりばめることができます。

大人の側がすべて先回りして子どもたちが意識して何も働きかけたり考えたり注意しなくても、何でも自動的に大人がやってくれて、子どもたちがよくわからない事柄の回答は大人の中にすでにあるもの、そういった認識が子どもたちの中で当たり前にならないように、お部屋の仕組み作り、クラスの仕組み作りを意図しています。

いつも出てくる主体性の発揮をお部屋作りの中から意図するということですね。

園の中は当然子ども集団のクラスという出発点があるので、この視点がなければ子ども集団作りはかなり困難なものになるかもしれません。
年齢が上がっても不相応に大人任せになると、ふざけたり茶化したりという姿が見られるようになるかもしれませんし、暇つぶしみたいな行動が出てくるかもしれませんし、目立ちたい子がネガティブな情緒を起こして大人の注意を引こうとするかもしれません。

子どもたちが自分で考えたり、役割を引き受けてやる中で、自分って周囲を把握している感、自分って大人の関心の中にいる感、自分ってやれるよね感、そうしたことの体験を繰り返す、繰り返してその目指す先が大げさに言えば~~~と見ているんです。

大人が答えを言う前に急停止して、「君ならわかるはずだ、わからなくても既に感じ取っているはずだ、それが何かを言うとそれは私の答えであって君の答えではない、私は君の答えが聞きたいのだ」という、これは小学生を相手にした教師のセリフでしたが、同じ方向だと思います。

こうしたセリフを大人から堂々と質問されたとき、子どもたちは「自分は重要ではない」「自分はいてもいなくても同じだ」みたいな自己否定感を持つでしょうか。

さ、ええ、岩崎保育園は芸術家を育てようとしているでしょうか。の続きでしたが、また話がそれてしまった、、、、しまいましたが、これはまた次回に。





いわさきちひろさんの絵3

  • 2021/05/15
キッズノートでお知らせしてくれたデユシマ社製のピラミッド。

ドイツは子どもの発達の専門家、医師、児童心理の先生、保育士、デザイナーなどが集まって、子どもの遊びという主題に向けて知恵を出し合い遊具を開発するフレーベル以来の何百年という伝統があります。

ドイツのみならず、ヨーロッパの児童福祉先進国と呼ばれる国ではどこも同じで、そこで培われたノウハウやCE(ヨーロッパ安全基準)を満たした遊具を岩崎保育園で使用しています。
CEは昔シュピールグート認証と呼ばれ子どもの遊具の基準で世界で一番厳しいものになっています。(という認識でしたが、こどものとも社さん間違ってたらお伝えください。)

この写真の大きなピラミッド遊具でもって赤ちゃんの探索行動を助けるネライですが、赤ちゃんのつかまり立ちとか、探索行動を大真面目に研究して、企業体が延々と考え開発していく、この姿勢は日本の保育指針にも受け継がれております。

子どもの遊具だからこの程度のものでいいだろう、子どもが喜ぶからキャラクター入りのコップでいいだろう、とはみんな思ってないのですが、ドイツやヨーロッパの人たちはそういうこととは別次元で子どもの遊びを大切にとらえている、ということになります。

絵本も遊具も質の良い物を揃えて活動に導入します。

これの延長上の考えで、例えば大人が一生懸命に牛乳パックで遊具を作成したとしたら、それももちろん、大人の努力として高く評価されるべきものと思います。

でも岩崎保育園では、牛乳パックで遊具や備品を作成する、ということはせず、上記のような背景から既製品を購入して使用します。

話は飛ぶようですがイタリアの子どもたちは小さなころからダビンチの絵のようなものを日常的に目にする機会が多い、なぜかデザイナーとかそういう業界ではイタリアの人が抜きんでることが多い、これは因果関係があると思います。

アニメのような図柄の切り抜きよりも、絵本やいわさきちひろさんの絵のようなものを壁面に飾るということは、そのあたりから光をあてた考えでもあります。

では、岩崎保育園は、子どもたちに芸術家になってもらいたくてこのような取り組みをしているのでしょうか。

これについてはまた長くなるので次回に。




いわさきちひろさんの絵2

  • 2021/05/14
ももぐみさんのリーダーさんによると、子どもたちは汽車遊びの時に線路の先を見ているそうです。

保育園舎の中には水道屋さん、電気屋さん、設備会社の人たちとさまざまな出入りがありますが、担当者の図面を見ながら後は想像の世界で計画している様に毎回内心驚いています。
立面図とか配線図とか、ひとめ見るだけで何をどうしたらいいかが分かり、何をどれだけ手配するかすぐに行動できる、いくつかの関係先と打ち合わせて調整する、まるで、保育活動のネライの発展形みたいな感じがしませんか。


この建物が着工してから連日、大量の図面を見ながら大勢の人がそれぞれの持ち場で役割を分担して、それぞれの責任で毎週の会議はにぎやかさを通り越してましたが、これも一例ですが、大人になってからの役割の模倣や、自主的な無意識的な自己訓練が子どもたちの遊びの本質だということがほんの少し垣間見えてきます。


いわさきちひろさんの絵記事はまた次回に。








いわさきちひろさんの絵

  • 2021/05/13
たんぽぽぐみのお友達のシーンとたんぽぽぐみのお部屋紹介。

例えばテレビアニメのキャラクターなどは動画の放映のために大量のネガ絵を作るために単純化された製作サイドの作りやすい、人気を目的とした図柄になっています。

よく考えられた絵本などは製作サイドは絵そのものに子どもたちが細部にわたるまで何かに気づくように、人気というよりも絵本作家や編集者の意図が伝わるように、私たちの想像を超える時間と苦労を重ねて出版までこぎつけています。

四季の花とか、葉っぱとか、それぞれに単なるモチーフ以上に子どもたちの何かに訴える力があります。

それで、岩崎保育園では、お部屋の壁面などの環境は、くまさんうさぎさんが切り抜かれた図柄やアニメのキャラクターではなく、作家の絵や自然のモチーフなどを用いたものとなっています。
作家の本物の絵などはもちろん予算的にムリですけれど。

テレビアニメについては見る側が受け身でしかありえないということと、光や音、動きの刺激が子どもたちには強すぎる、ということも挙げられます。
光や音の激しい動きや強い感情、また例えば大人の必要以上のハイテンション、などというのは刺激が強くて大人でもそこにじっと注目します。

ここで注意しておくべきなのは、活動においても子どもたちは強い刺激でそのときは満足しても、、逆に次はもっと強い刺激、もっと見た目がすごいものを、などエスカレートして不必要なフラストレーションの元になったりもする。
よくテレビで子どもたち相手に踊ってハイテンションの大人の映像が流れますが、普段の生活の中であれは大人も続きませんし、子どもたちを興奮させることを目標としているわけでもないです。

子どもたちは普段の生活の中で葛藤を体験して感情が爆発したりもありますが、大人はその感情を受け止めつつも、それを言葉などに変換してその子がなるべく状況や自分の気持ちを客観的に見ることができるお手伝いを継続して行う、ことの方を主眼にします。

それと、お外の季節のちょっとした変化や絵の細かなところまで気づく力が最初から子どもたちに備わっていますが、外の刺激の強さに慣れてしまうと、その辺が弱くなるというあたりも継続して唱えられています。

いわさきちひろさんの絵が掲げられてますね。

不思議と空気を醸し出すというか、線なのか色使いなのか、こうしたことも受け手が様々に感じ取ることができる環境にしたい、ということもあります。

このテーマは長くなるのでまた次回に。





パターンとして見てみる

  • 2021/05/12

ひまわりぐみ、さくらぐみのお友達は、ギラヴァンツ北九州のコーチによるサッカー教室がありました。

感染症流行の前は、年長のひまわりぐみさんは小倉南区の認定こども園のぞみ保育園、苅田町の与原保育園にサッカーの遠征試合に行ってました。

バスがのぞみ保育園や与原保育園に到着して、子どもたちがバスから降り立つと、毎年、先に園庭でサッカーをしているのぞみ保育園や与原保育園のお友達を前にじっと固まり、びっくりしたような、目を見開いて観察しているのか、何か思っているのかそのままフリーズしているお友達がおります。

圧倒されてるのだろうか?ドン引きしているのだろうか?恐いのだろうか?自信がないのだろうか? でも表情を見てると自信がなくて不安だみたいな顔はしていません。

「どした?」というと、今度はただこちらの顔をじっと見ているだけです。赤ちゃんのように指をさして「見て!」みたいなポーズもない。

これは、「自分が中心に回っていない」という一種の驚きというか、そういうものだと思えます。自分の目の前でたくさんの子どもたちが自分とは無関係に刻々と状況が変わっている、誰も自分に関心を示している様子はない、という状況を目の前にして、新鮮な驚きみたいなもの。
これを前に、ネガティブにとらえて泣き出す子もいるかもしれません。逆にワクワクして僕もしたい、やってみようと参加の意欲を示すのかもしれません。
今まで、岩崎保育園のお友達はこうしたときネガティブな反応を示す子はいませんでした。

この状況が自分の中の壁になって泣き出すような子がいれば、そのお友達は自分が中心に回っていないことに驚いたり戸惑ったりしているんだと解釈すれば、「きれいな園庭やね、転んでも痛くないから、サッカー終わったらしっぽとりしよう」「先生が見ているから~ちゃんと一緒にあそこでボール蹴ってみようか」など、じわっと背中を押す働きかけがイロイロ出てくるでしょう。

これが、大人の方で「この子は特別気が弱いのだろうか」「この子はこれだけ不安感が強いのは今何かそういうことが起こっているのではないか」「こんなに自信がないということは自己肯定感が薄いのだろうか」と感情の原因を追求する方に考えてしまうと、どんどんシリアスに重たく、どんどんネガティブになっていきます。

もちろん、そういうこともあるのでしょうが、どちらにしても、その場では証明できるようなことではない。ならば、フリーズしている子には「今日この場では自分が中心に回ってないぞ!」という違うパターンに対する反応だ、ととらえれば、ひとつの勇気づけのチャンスになると思います。ネガが逆転してポジに変わる、ということも頻繁にあります。

このパターンに働きかける、という方法はカウンセリングの現場で用いられることもある意識的なノウハウのひとつになります。
「自分はダメだ、この先やっていく自信がない、不安で胸が押しつぶされそうです!」という大人に「あなたはすべて完璧に自分でコントロ-ルしなければ人から変に思われる、みたいな行動パターンがあるのではないと思いました。事実はすべて完璧にコントロールできなかったからといって誰も気にしません」とカウンセラーが介入する方法と同じです。

さっきから、ヤフーの天気予報が気になります。雨、続くみたいですね、今年も昨年のような豪雨があるんでしょうか。気になります。



教えにくいもの

  • 2021/05/11
すみれぐみさんのお友達が台の上を渡っています。

バランスをとりながら平均台の上を歩いたりを繰り返して、子どもたちの大まかにいえば体幹が成長していくでしょう。
体幹、またとらえにくい語感ですよね。
若い大人でも姿勢がしゃんとしてないとか、すぐべたっと座ってしまうとか、ゆっくりした動きのときにフラフラするとか、生活全般に体幹が弱いといいことはありません。
筋肉の力よりも体幹の力から発したものは威力がある、という武道の先生はたくさんいます。
体のどこか一部だけの筋肉が発達していても、全身で動くのだからケガをしやすくなる、とも言われます。
先の記事のイチローのパワーも体幹から出るものです。

筋肉をトレーニングする、筋トレは教える方からすれば教えること伝えることが目に見えているので、何をどうしたら筋肉ムキムキになるかはっきり明快に教えることができます。
これに対して体幹の方は体の基礎ですが、目に見えません。教える方からすれば教えにくいです。ただ、教えなくても、小さな子どもの場合は楽しくサーキットしたりサッカーのゲームをしたり、里山で虫を追いかけたり川辺で転ばないように気をつけながら遊んだりすることで体幹はしっかりしてくるので、伝えるのに難しくはありません。

これが、筋肉の方から先にトレーニングして体幹活動は後回し、になるとどうなるでしょうか。
まずケガが心配になりますし、筋肉トレーニングってした人しかわかりませんけど、相当キツイ。本格的にやるとなるとアメリカの海兵隊か何かの訓練シーンみたいになります。

文字、数字、とか行事で子どもたちが披露するもの、これは目に見えます。きちんとできたら華やかで感動しますし、周囲の大人からの評価は高まります。
文字を覚える前の前提となる内面の言葉が充実すること、自己主張したり、困ったら大人に説明しようとしたり、時には自問自答して自分で気持ちの向きを変えたり、これらは目に見えません。これらがされているからといって、周囲からすれば、華やかでもないし、そういうことを観察してない限り感動もしないでしょう。

平成十年代から、これら目に見えない非認知能力とか、キーコンピテンシーとか、世界的にそこに投資しないと人間は成長しない、ということを経済の専門家(OECD)の方から主張され始めました。世の中の変化が速くなり、答えのない課題に取り組む人材、自分で考えてサバイバルできる人材、が求められた、ということです。
もちろんビジネスに限ったことではなく、環境の問題とか、個人の家族生活の問題とか、個人の人生すべてにわたるもの、と教育の目標が再定義されました。


そういうことから、日本の保育指針とか教育要領や小学校などの学習指導要領が変わりました。
コロナの問題で、これらのことは今現在、シリアスな問題として関係者の前に課題として横たわっているという状況です。

さ、明日は久しぶりにギラヴァンツのコーチが来てくれます。




笑顔はどこから

  • 2021/05/10
たんぽぽぐみさんの日常です。
私たちの笑顔はどこからくるのかを大真面目に脳のデータを集めたりしている専門の先生方がいて、人間の笑顔は人間の群れをつくるためのものだ、というところまではわかっているそうです。
赤ちゃんのときから遺伝子か何かがそのようになっていて、楽しい感情などを笑顔で示して周囲の人たちに所属して結果として自身の安全を保つ、ということだそうです。

笑顔は人間の集団の所属の感情と深く結びついているということになります。
笑顔ではないこと、ブスッとしていれば大人でも機嫌悪そうな人とは距離を開けようとします。

脳の中には二つの大きな働きがあって、ひとつは自分の安全を保つために、外敵や危害を加えられることを避けるために、外部の人を警戒し、危険を察知すれば逃げるか攻撃するか、の働き。
ふたつめは、同じく自分の安全を保つために、外部の人と協力したり助けられたり助けたりして、外部の問題を解決していく働き。

危険を察知すれば逃げるか攻撃するかの働きは、爬虫類(トカゲなど)も持っているそうです。原始的な本能だということですね。
外部の人と協力して自分の問題を解決するという働きは、人間特有の脳の前頭葉という部分が発達していないとできないことだ、というところまでわかっています。

これはとても大切なことを示唆してますよね。

私たちは社会生活を送るうえでボヤボヤしていれば詐欺の被害に遭ったり、外国の紛争地帯にウカウカ入ると犯罪にまで巻き込まれたりすることを警戒しなければ安全を保つことができません。トカゲさんと同じ部分を働かせなければならない、ということになります。

しかし、それだけだと、例えば警戒ばかりしている、この人は私に何の悪いことをしでかす人だろうか、という目だけでは当然生きていけなくなってしまいます。
トカゲのように1人で山の中やサバンナや穴の中で生きていくのは大変だから、他者がたくさん参加した社会的な仕組みの中で快適に過ごすために、協力できるところは協力する、とか誠実さ、とか笑顔が素敵、とか、そういうふるまいや行動が遺伝子レベルでプログラムされている部分がある、ということかもしれませんね。

これって、保育の現場でもすごくポイントになってくると思います。

笑顔、特に子どもたちの笑顔の写真は笑顔というだけで映えます、どこに出したとしても。




ももぐみさん汽車遊び

  • 2021/05/08
ももぐみのお友達は自分でジョボをつなげてボールを作ったり、線路の上を汽車を走らせて遊んでいます。
例えば、園庭の砂場が毎日位置が変わる、ということはないです。今日は○○ちゃんと砂場で遊ぼう!と外に出ると今日は砂場がなかった・・・ということはありません。
砂場は毎日そこにあるから、子どもたちは何をするか選択できることになります。
決まった物はいつも決まった位置にある、ということは、子どもたちが生活の見通しを持つために必要な環境づくりのひとつで、これはゼロ歳児のときからそうです。
さらに、ジョボや積み木のピースはタテ何センチヨコ何センチとすべて決まっています。積み木では基尺きじゃくといいますが、基尺が決まってなくて各ピースバラバラの長さ大きさだったのでは、子どもたちはジョボで何を作ろうか、積み木で何を積もうかと想像もできないのです。
このように、身の回りのモノやコトが、最初からいろんなことが決まっている、ということが、生活の見通しをつけるうえで、活動を自分たちで展開していくうえで必ず大切なことになってくるのだと思います。
このように見てくると、身の回りのモノやコトが最初から決まっている、もののひとつに子ども同士のゲームのルールがありますし、お部屋で気持ちよく過ごすためのお友達同士のルールがあります。ですからルールを決めるのは安全面や活動を考えて基本的に大人が決めるもの、と考えています。
毎年ですが、ももぐみさんは大人が線路をつなげてあげないと、子どもたちは汽車を走らせて遊ばないそうです。このことから、子どもたちは何を欲しているのでしょうか。
私は子どもたちは「レールを求めている」と思っています。
当たり前の事実ですが、レールの中には本当の線路のピースだってありますし、さきほどの決まった物が決まった場所に置かれていることとか、積み木の基尺だとか、そういうものも含まれると思います。
レールがあるからこそ、子どもたちは見通しを持つことができ、だから安心することができ、次の展開がわかり、自分で意欲を持ち、作り物でもお話合いでも発展させていく、という良いサイクルに入りやすくなるんだと思います。
小学校に入ると算数が始まりますが、算数は身の回りのものには順番や一定の秩序、差、仕組み、法則があることを頭の中で理解しなければなりません。
そのためには、あらかじめ決まった仕組みの中で生活を積み重ねる実体験がとてもとても算数が「わかる」ためには必要なことだと言われます。
保育という大きなくくりのキモのひとつはここにあると考えています。

ページ移動

  • ページ
  • 1
  • 2
  • 3

ユーティリティ

calendar

042021/0506
S M T W T F S
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

category

  • カテゴリーが登録されていません。

search

エントリー検索フォーム
キーワード

feed