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2021年06月の記事は以下のとおりです。

オオカミに育てられた少女

  • 2021/06/07
ももぐみさんお友達のごっこ遊びです。子どもたちはお家の人などを真似てテーブルを拭いたりフライパンで調理したり、大人の真似をする学習力は強力みたいです。

有名な話なので、皆さんご存知の方もいると思いますが、インドでオオカミに育てられた少女が発見されたことがあります。

確か学童くらいの年齢で人間社会に保護されたのですが、オオカミが人間の女の子の育児をしていたんですね。

オオカミに育てられたその女の子は二本足で立つことはなく、手と足を地面につけてオオカミと同じように四つ足で素早く移動しました。

オオカミそのものの声で遠吠えすることもありました。食べる時も手でつかんで食べることはなく、オオカミのように手で食べ物を動かないように押えて口を食べ物の方に持っていって食べました。

この事実が証明しているのは、赤ちゃんがつかまり立ちをしたり歩行を始めたり、手づかみで食べたりスプーンで食べたり、笑ったり喃語を言ったりするのも、すべて周囲の人を観察して自分で学習しているということになります。

子どもたちは本能的には、大人の言っていることの内容よりも、大人の行動、表情、しぐさ、テンションなどを無意識的に吸収して取り込んでしまうところが多々あると思います。言葉使いもそうだと思います。

子どもたちは、ある意味、ある限度で大人の鏡であり、子どもたちの姿は大人のそれの投影かもしれない、そう考えると、子どもたちへの接し方についても、家庭との連携ということについても、かなり振り返りの質が変わってくるかもしれませんね。




トモダチ作戦

  • 2021/06/05

さくらぐみのお友達はダイコンを収穫しました。
青虫とかシャクトリムシとか、大人が本物を見るとかわいい+グロテスクな感じがしますが、それがはらぺこあおむしとして表現されたり、綺麗なモンシロチョウに変化するところが青虫物語として子どもたちにとってロングセラーな魅力になるんでしょうね。

東北の大震災のとき、破壊的なあの状況の中で海の向こうから2万人を超えるアメリカ軍の皆さんが救援やがれきの撤去作業のためにやってきました。
「トモダチ作戦」と名付けられたこの作戦によって、アメリカの兵隊さんたちが地元の人たちと一緒に力を尽くしました。
ネットで「トモダチ作戦」と画像で検索すると、上の方にでっかいアメリカ兵と地元の小さな子どもがタッチしている写真が見えます。

この子とこのアメリカの兵隊さんは仲間でしょうか他人でしょうか?(政治的なことはここでは置いとくとします)

アメリカ軍の幹部がこのトモダチ作戦を実施した動機として「ニューヨークの同時テロのとき、日本の消防隊が駆けつけてくれて力を尽くしてくれたからだ。」と語りました。

個人に置き換えて、普段は遠くに離れていて話もしないような人とか、近くにいても特に仲良しというわけではないけど、自分が困ったときやピンチになったとき、何か被害を受けたときとか、自分のために親身になってくれる人がいるとか、共に課題解決に力を尽くしてくれるとか、アドバイスを考えてくれるとか、そういう人たちがいる、存在する、という感覚が所属の感覚、自己肯定感の高い感覚、自尊感情が高い感覚、でした。ですからトモダチ作戦のこの子どもと米兵さんは仲間なんですね。

私たちは皆誤解しがちですが、いつもそばにいて同じことをしていて、気持ちを共有して、自分の言うことなすことすべてに共感してくれて、何をするのも一緒、やり方も一緒みたいな状況はそれ自体はリラックスタイムとかお茶のみ友達として生活の中のうるおいのシーンやストレス解消シーンとして必要があると思いますけど、ただそれだけで本当の仲間・友人・友情といえるかどうかは微妙だと思います。

前回のように相互依存にまで進んでいくと、いつも一緒に寄り添ってくれることが当たり前になり、共感し合うことが当たり前になり、少しそうならないシーンが出てきたら相手に不満を持つようになり、相手が自分を裏切らないか観察して疑心暗鬼になり、どうしてこうしてくれないの、言ってくれないの?と要求になり、ネガティブに反応された相手も陰性の感情を起こして関係が破綻する、どこにである典型的な依存関係パターンも日常的にありふれているように思います。

対子どもとの関係も似たところがあると思います。
大人の方は良心的に子どもたちに一生懸命尽くしているのに、子どもたちの方は「どうしてもっと僕を見てくれないの?」と満足せず要求は際限なくエスカレートしていく、大人は「どうしてこんなに一生懸命しているのをわかってくれないの?」、とエネルギーを吸い取られるようなやりきれなさを感じる、こんなふうにお互いフラストレーションが高まっている状態だったら依存関係になってないかな?と考えてみると解決策は簡単に見つかるでしょう。

写真の米兵を見た子どもの中には「かっこいい、自分もあんなふうになりたい。」と思う子もいるでしょうし、仮に米兵さんがその子に「君は赤ちゃんなのか?」と言えばその子は「僕は違うぞ!」となるでしょう。ぱっと聞いた感じそういうところには依存の芽はなさそうです。

子どもたちを依存する、させるのではなく、活動の方に気持ちを向ける、勇気づけをする、その中から仲間って何かを体感する、子どもたちがその深い意味をわからなくてよい思います、体感する。大人がすることはここまでで、あとは子どもたちが何を感じ取るんだろうと思います。

(ただ、軽い依存は日常的にどんな人間関係でも多少はあります。それで社会的に不都合はないから。)

仲間と友情と競合と依存の関係

  • 2021/06/04
さくらぐみのお友達が「みち」絵本からサーキット活動につなげました。今はお友達同士の遊びがほとんどになってきた、とのことです。いいですね。

赤ちゃんは大人に全面的に依存する関係で、クラスが進級するにつれ身の回りのことを自分で少しずつ少しずつしようとして、心身ともに自分で出来ることが増えると同時に自分のしたいことも増えてきて、自分でいろんなことができるようになる、対人関係ではだんだんお友達同士でああでもないこうでもない、ああしようこうしようと一緒に過ごす時間が増えてくる、という、クラスの子ども集団として、いい方向に向かっています。

子どもたちの対人関係は(大人でも同じですが)、依存関係、競合関係、仲間関係の3つにざっくり分けられると思います。

まずひとつめ、競合関係。これは子ども同士がどっちが上でどっちが下か争っている関係、大人で言うマウントですね、または俺は上なんだぞとお友達を見下したり支配しようとする関係、または自分は下なんだと卑屈になる関係といったことです。
ただ、決められたルールの下で、競うのはこの時間帯、この場所で、で限定したうえで、裏表なく公正にジャッジする条件のスポーツは勝ち負けや順番を競ってはいますが、争ってはないと見ます。

これ大人の世界でも多いというか、ひょっとしたら半分かそれ以上そうした関係の中で動いてないですかね。
権限のあるオフィサーが権限のない人に対するハラスメントもそうだし、逆に変に卑屈になって被害者として人の揚げ足をとることばかりに莫大なエネルギーを使っている人も同じ競合関係とみます。

次に、ふたつめ、依存関係、赤ちゃんは依存することが自分で生存と発達のためプログラムされた戦略ですから、周囲の大人にかわいがられて衣食住すべて大人がそその子に代わってするのはもちろんです。

不都合な依存関係もあります。赤ちゃんではない年齢になっても、人がその子のできることを代わりにやってあげるとしたら、その子は自分でできることをしなくてよいので、赤ちゃん返りするでしょう、言動が赤ちゃんの方に退行することもあるでしょう。
肩代わりしている大人は良かれと思ってしているでしょうし、されている子どもは赤ちゃん扱いされて心地よく感じて赤ちゃん返りする。
対人関係上、一方は何かの動機で気持ちがいいのでしなくてよいことをする、一方はしなければならないことを人に肩代わりされることが当たり前になる、これが相互依存のひとつの型ですが、これもまた、大人同士でもとても多い現象です。

また例えば、ある人が何かの理由で気持ちがいいので、特定の人を標的にして悪口を言う、聞かされた方は何かの理由で無条件にそうだよねと共感する、共感された方は心地よくなってさらに悪口を言って共感してくれた人に共感する、そしてずっとその状態がループしていく、終わらんやん、という型もあります。

依存関係が不都合なのは、子どもの自立が妨げられるから、というのもありますが、実際に怖いのは薬物にでもお酒にでもギャンブルにでも人にでも依存している人というのは、依存していることに何かの快感を感じていて、困ったことにそうやって心地よく感じると、もっとお酒を持ってきて、もっと共感して、もっと私を見て、もっともっと・・・といつまでも続いてエスカレートしてしかも抜けられなくなることなんです。よくある依存症ですね。あまり本人に悪いことをしている、マズイことになってるという自覚がないために根が深いとも思います。

お酒とかギャンブルまでいかなくても、ネットで「対人依存症」とかで検索してみてみるとズラズラいろんな記事がヒットします。メンタルの病気の入り口でもあるので、気を付けなければいけないなと思います。こればっかりはですね、愛情かエゴか、シェイクスピアに出てきそうな永遠のテーマみたいです。

ですので、大人はともかく、幼児さんの生活の中で依存シーンがないかどうかは保育現場にいる人は注意して観察します。

では、みっつめ、仲間関係。幼児さんのクラスの人間関係はこっちの方向を目指しています。また次回に。


絵本の読み聞かせの意味

  • 2021/06/03
ちゅうりっぷぐみのお友達は絵本に入り込んでますね。

それぞれの絵本の面白さ、価値、意味についてはこのサイトのリンクページに貼っている小倉南区のどうぶつ島さんにお問合せすればスゴイ詳しいと思いますよ。

絵本の読み聞かせの意味は少なくとも3つあると思います。

ひとつめは絵本を読み聞かせる大人とのコミュニケーションの意味があると思います。読み聞かせる大人が怖い人だったら子どもたちは大人の方が気になって絵本の世界に入り込めないでしょう。大人の方が一方的に大声のハイテンションでまくしたてていたら、子どもたちはやっぱり大人の方が気になって絵本の世界に入れないでしょう。読み聞かせる大人の声や雰囲気と絵本は一体となって子どもたちに語りかけているのだと思います。そしてイメージの世界に入り込む。

ふたつめは遊びや活動の端緒になることです。前回のシンデレラのお城もそうでしたが、子どもたちの共通イメージを作るのに絵本は最適だと思います。

みっつめは、子どもたちが絵や言葉の表現とかリズムの中に入って、喜怒哀楽そのまんま、ムキ出しの感情表現、例えば泣きわめくとかかみつくとかそういう本能的な自分の世界、そしてある・ない、いい・悪いといった単純な思考、などを徐々に置き換える、というか、自分自身の中にあるイメージとか風景、ものの見方・感じ方の幅を広げている、と思います。

ムキ出しの感情、例えば気持ちが向かなかったりして「お家に帰りたーい!ママがいいー!」と泣きわめく子がいるとすると、それは悪いことではないと思う。

でも大人や思春期の青少年が「お家に帰りたーい!ママがいいー!」とはなかなか社会的に言えない。でも実家に帰りたい気持ちというのは何歳になってもストレスがかかったときとか、思い通りにならないときにけっこう普通にあるのかもしれない。だからといって「実家に帰らせていただきます。」と颯爽と実家に帰るのもイロイロ具合が悪いこともあるかもしれない。

海恋し 潮の遠鳴り数えては 乙女となりし 父母の家 (うみこいし しおのとおなりかぞえては おとめとなりし ちちははのいえ)

与謝野晶子の歌ですが、海沿いの、海の波の音が遠くに聞こえる実家を懐かしく思う気持ち、実家に帰ってみたい気持ちなどがこの短い一言で表現されていて、情景が浮かぶ人には浮かんでその気持ちまでもがわかるんだろうと思います。この気持ちのオオモトは「ママがいいー!」ということだろうと思います。

こうやって歌となると、社会的に拒絶はされないし、不都合もなく、むしろ人としての気持ちが素直に入って胸を打たれる人が多かったため、今に語り継がれているものです。

こういうムキ出しの感情や本能的なものを消化して本人にとっても周囲にとっても破壊的なものから、強いメッセージ性を帯びるものに変換させるもの、これも目に見えないのですが、ここでは「情操」と呼びます。

絵本に触れたり、子どもたちに読み聞かせる大きな意味は、子どもの情操の芽を育んでいく、大人の情操への橋渡しをする、ということだと思います。

アメリカで大規模調査が行われました。知能(IQ:Intelligence Quotient=インテリジェンス)が優れている人がいい暮らしをしているのか、情操(EQ:Emotinal Quotient=エモーショナル)がある人がいい暮らしをしているのか、と視点での追跡調査でした。スタートはそういう目的ではなかったのですが結論として情操がある人がその後の暮らし向きがよかった、という結論でした。

ざっくり書いてるので一部不正確です。










積み木活動の意味

  • 2021/06/02
シンデレラのお城。出ました、素晴らしいですね。

積み木活動の意味を、四つに分けて述べたいと思います。

積み木活動をする意味のひとつめは、失敗する(崩れてしまう)可能性があるから、です。もちろん失敗は許容したうえでのことです。

普通のブロックだとくっついてくっつけて、失敗の可能性がないです。積み木であれば崩れてしまわないようにお友達同士注意して積み上げていかないといけません。だから積み木活動に参加すれば自動的に当事者として自他に注意しながら積み上げていく必要があります。

仮に途中で崩れてしまったら、もう一度同じものを最初からやり直すか、視点を変えて別のものを展開するか、そこでも子どもたちは考え話し合わないといけません。落ち込んでも気を取り直さないとまたチャレンジできない。子どもたちへの意識的な勇気づけのチャンスも生まれます。

これだけとっても、注意力、コミュニケーション、葛藤解決、集中力、根気などという目に見えない部分の栄養になる活動になります。

積み木活動の意味ふたつめは、これが一番私にとっては積み木活動の意味だと思いますが、小さな決まった形のピースをひとつひとつ積み上げること、で発せられる、いわば積み木そのものから子どもたちが受け取るメッセージです。これは何でしょうか。

積み木ひとつをひとつひとつ積むことそのものは、小さな子もできることですが、この普通のことを積み上げていくことでコトは発展していって、写真にあるようなシンデレラ城などが出来ていく。

これはいろんなことにそのままあてはまることでもあります。
遊びしても仕事にしても、スポーツにしても芸術にしても、工業製品の開発にしても行事にしても、語弊があるかもしれませんが、ほとんど普通の人が普通のことを積み上げた結果でもあります。

私たちは結果の部分を見て、例えばすごいスマホの新機能が出た、すごいスポーツ選手が出た、すごい作品を作る天才が出た、めちゃくちゃ仕事ができる、めちゃくちゃ勉強ができる、ダンスがとても綺麗で感動した、いろんなことに心を動かされ感動し、多かれ少なかれそこにある種の特別感を見出すのですけど、その裏は地道な地味な当人や関係者の目立たない、長い時間をかけての努力や作業の積み重ねが存在している場合はほとんどです。

少なくとも、保育教育関係者はこのことを熟知していると思いますし、私のような立場の者は、写真や動画に出てこないような、表立って見えないような、目立たない関係の人たちの取り組みや工夫、地道な努力といった集積で園の子どもたちの活動が成り立っていることを直視する必要があります。

積み木活動はそのようなこととベクトルが同じメッセージを体感させる活動だと考えています。ただ積み木の活動は子どもたちにとって楽しくイメージを伴う活動なのですが。

積み木活動の意味みっつめは、学習指導要領にあるとおり、小学校に入学して計数・形の感覚、算数の土台になる力ですね、これをストレートに育むこと。

2×4=8、積み木を二つずつ4つ並べれば体感できます。
逆にかけ算を習っても、これを積み木で表現できないのなら、本当にはわかっていないのかもしれない、因数分解などの時につまづく、どうしてつまづいたんだろう?となりませんか。

割り算なら机の上の積み木のかたまりが全部で何個あって3つずつ順番に取り分けていくと、〇〇÷3は?を体感していることになります、答えは3個のカタマリをいくつあるか数えればよい。

ところがこういう体験が不足して、こういう個物の操作が満足にできないのに、算数の世界、数学の世界に入っていくとどうなるか。

積み木活動のよっつめは、積み木があるところには、クラスの様子の一部分、そこにいるクラスのお友達の人間関係が少し垣間見えるように思います。

競合的なお友達関係のクラスなら誰かが積んでも誰かがその積み木を壊してしまうかもしれません。

積んでいる積み木を誰も壊さないのだとしたら、ケンカばかりしている子がいたとしても、クラスの文脈を本当はわかってて、ケンカは大人に対する何かのメッセージであって、その子が特別乱暴な気質を持っていると判断しない方がいいのではないか、などと検討もできることになります。

コーナーの意味

  • 2021/06/01
たんぽぽぐみのお友達はそれぞれのコーナー遊びです。

コーナーはお部屋の中のそれぞれの遊び・活動のエリアですが、大人から見て全体が見えなくならないようなタナを置いてコーナーごとの仕切りにしています。

たんぽぽぐみから年長のひまわりぐみまでお部屋の中は各コーナーを子どもたちへの動線などを考えて配置しています。

なぜコーナーを配置しているのかというと、理由は3つあります。

ひとつは、子どもたちを遊びや活動へ誘うため、です。ここでいう遊びや活動は子どもたちが主体的に行う活動です。主体性を発揮しやすくなるようにコーナーを設置しています。
主体性の発揮というのは、子どもがやりたい放題やって大人は放置している、ということではなく、恐れを知らずに何があってもただ自分のしたいことをがむしゃらに進めるタフガイになる、ということでもなく、イメージとしては子どもから自分から注意して動く、ということを期待しています。

自己肯定感=所属のために大切になってくるもののひとつが注意力なんだろうと思います。

自分から注意して言ったり行動したりする。大人でも例えば車の運転のときは、歩行者や自転車に注意しながら、右折のときは対向車に注意しながら、無数の注意をしながら運転しています。
歩行者や自転車の人が注意してくれるだろう、対向車の人が注意してくれるだろう、というのはその人たちに依存しながら運転しているともちろん危ない。
助手席に自分の代わりに注意してくれる人がいて、運転席に向かっていちいち先回りして声をかけてくれればいいけどそれはない。なので「注意する」、というのは自分以外の人が注意することはあり得ない、何かに注意している時点で既に主体性の発揮なんだとも言えます。

車の運転だけでなく、自身の身の安全とか仕事でも同じですし、学校に行けば先生の話を注意して聞けないとしたら不都合だと思います。自分の行動や言動について注意力が弱い、というのは所属のためにも不都合だと思うのです。

この自分で注意する、というのは、大人が子どもに「注意しなさい!」とやかましく言っただけでは身につくことはなく、活動や対人接触の体験の中で少しの失敗とか葛藤を積み重ねて、こういう時にこういうことに注意する、と大人から伝えられたりして身につく性質のもので、教えようと思ってもなかなか教えられない目に見えないものです。

コーナーには子どもたちが自分で主体的に活動できるような遊具や教材が置いており、大人がコーナーの配置によって意図的に子どもたちを活動に誘っているのです。

理由のふたつめは、ここは何をする場所、と子どもたちにとって、わかりやすい、見通しのつきやすい環境にするためです。

このスペースではこれとこれはしていい、このスペースではこれとこれはダメ、といったお部屋の使い方はしません。ひとつのスペースにメッセージを二つ以上こめない、という意味があります。このスペースではこれをします、このスペースではこれをします、というメッセージを子どもたちに伝えます。だから小さな子の場合はたんぽぽぐみさんのようにゴロンとなるスペースも。

テレビの他には何もないお部屋は?テレビや大人そのものがマトになるというものですが、これはそもそも主体性の発揮の余地がないと見ます。よくない方向に行けばテレビや大人に依存するクラスになってしまう可能性もあると思います。

理由のみっつめは家庭的な温かい雰囲気を環境として出したい、ということです。
コーナーにしつらえているものは、遊具や備品も木の温かみのある素材・色でまとめられていると思います。
子どもによっては家庭を離れて一日10時間以上園で過ごす子もおります。これは必要なことだと思います。






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