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2021年05月の記事は以下のとおりです。

万華鏡

  • 2021/05/31

ひまわりぐみのお友達は、園庭の草や虫を虫メガネや万華鏡で観察しています。
万華鏡が伝えるメッセージとは何でしょうか。

子どもたちが実際に触れて、子どもたちの意思でどうにでも展開できるもの、積み木もそうだし、粘土もそうだし、折り紙もそうだし、大人の援助が必要になりますが、子どもたちの試行錯誤の余地があるもの(可塑性があるもの)を教材・遊具として使います。

子どもたちが触れて一義的にしか展開できないもの、アニメを見ている状態などがこれだと思いますが、なるべく園の活動にはしません。

では絵本は?絵本だって子どもたちから見ると一方的に読みきかせられているんじゃないか、というところですが、質の良い絵本はそれぞれのページに細部にわたって子どもたちがそれぞれに何かに気づくように小さな小さな工夫が髄所にちりばめられているんです。背表紙にも意味があったりするんです。絵本も実際にページを開けてみるとかなりの可塑性の高いものになっており、だからこそ親子でここがああなってる、これはどうして?、何でこんなところにこんなものが描いているの?と指さし指さし楽しむことができるものになっています。

幼稚園・保育指針また小学校の低学年の学習指導要領には、「具体的な個物」を媒介して子どもに教えようね、とあります。

確かにエリクソンの発達課題も就学前に抽象的な座学をしていてもクリアできない性質のものになっています。

具体的な物を通じて子どもたちに伝える、その物とは基本的に可塑性のあるものです。確かに、リンゴとリンゴは2つずつあってあわせて何個ありますか?と伝えるのに、頭の中のイメージだけを頼りにするよりも、具体的な物を使って伝える方が伝わりやすい。

可塑性のある物が子どもたちの試行錯誤とか工夫を引き出して就学前の土台(「レディネス」をネット検索すればたくさん出てきます)を築いていくプロセスを幼稚園保育園に在籍している間に活動する、ということで考えています。

では、何もないお部屋で子どもたちがきゃあきゃあ走り回っている姿は?これは運動能力の発達には良いと思いますが、第一危ないし、それは園庭遊びでするもの、と思っています。

お部屋では具体的な物がある、受動的にならざるを得ないテレビなどは置かない、と環境を考えています。
そして大人は子どもの発意による取り組みを先回りして代わりにやってあげない、ヒントを与えたり一人ではどうしても手に余るところをお手伝いするというスタンスです。

ある程度自分でイロイロできるようになった子どもたちの活動に対する大人の先回り(良かれと思って)、というのは前回出たエリクソンの発達課題の中でポイントのひとつになるもの、また臨床家が非常に注意する分野でもあり、共依存になにがしか関係する現象でもあると思います。また次回に。

万華鏡が伝えることは「ものの見方はこれほど多様だ」ということでしょうか。

青年期までの発達

  • 2021/05/29
ちゅうりっぷぐみのお友達は砂のサラサラ感触を確かめて、これからちょっとずつこんなことやってみようかなが芽生えるところ。

保育現場や臨床の場では広く知られているエリクソンの発達段階があります。それぞれの年齢幅でどんな発達課題に直面していかなければならないか、がざっくりわかりやすく把握できるようになっています。(正式の言葉は難しすぎるのでざっくり大まかに書いてます。)

0歳~1歳半ごろ 基本的信頼感 対 基本的不信感
これは大人からお世話をされることによって大人に依存して基本的信頼感を獲得する。放置されると人に対して基本的不信感を抱いてしまう。

1歳半~3歳ころ 自律性 対 恥や疑惑
もうここで自律性が出てきました。これは子どもが「うまくいかないかなー」と思いつつ、失敗を繰り返して大人に受容されることによって「自分でやってみよう」という自律の方向へ成長するけど、失敗して物を壊してしまって厳しく大人に怒られたりすると、人に対して一種の疑心暗鬼みたいな、「この人は何の恥をかかせる人だろう」、という目で人を見ていくように成長する、ということです。

3歳~6歳ころ 積極性 対 罪悪感
「自分でやってみよう」という態度がさらに成長すると、自分で考え判断して試行錯誤する積極性が育まれるようになる、反対に、言われたとおりにしないと怒られたり低評価を受けたり、また人と衝突してついルールに逸脱したりするとペナルティを受けるのではないか、みたいな、消極的にビクビクする方向に成長する、ということです。

6歳ころ~13歳ころ 勤勉性 対 劣等感
物事に取り組もうとする姿勢に成長するか、自分はどうせだめだ、という方向に成長するか。

13歳ころ~22歳ころ アイデンティティ(自己同一性)の確立 対 アイデンティティの不確立
ざっくり言えばアイデンティティは自分はどういう人間でこういう性格でこういう属性だ、みたいな自分というものを自分の中で持っている状態のことです。
アイデンティティが確立されている人というのは普通に寝て起きて仕事している感覚ですか、フレーズが不正確だと思いますけど、逆にアイデンティティが確立されてないとマズイと思います。

自分がどういう人間かわからない、自分は何者なんだろう?、自分はどう思われているんだろう?、今の自分は本当の自分ではないのではないか?、本当の自分って何者なんだろう?、この違和感って偽りの自分のせいではないか?、私って病的で本当の私はもっと健康な私ではないか?、などなど、とにかく自分は自分は自分は、本人にとってもとてもキツイ状態だろうと思います。

アルコールに溺れることもあるでしょうし、アイデンティティが確立されていない人がアルコール依存症の人を助けようとすると、自分がいないとこの人はダメなんだ、という方向に思考して共依存に落ち込んでしまう。互いに群れ合っていつも互いに傷口をなめ合うような関係もそういった人間関係の可能性があると思います。そうしてみると、日常のいたるところにそういった人間関係があって、不必要に私たちの生活を重苦しくしている要因のひとつかもしれません。

児童精神科医の佐々木正美先生の「子どもへのまなざし」という保育者のバイブル的著書にもこの相互依存の問題がわかりやすく指摘されています。

ある程度の年齢に達しているのにもかかわらず、自分がいないとこの子はダメだ、というパターンの共依存もあちこちで問題になっており、よく研修なんかのテーマで出てきます。続きはまた次回に。






魚釣り

  • 2021/05/28

すみれぐみさんのお友達はお兄ちゃんお姉ちゃんとしっぽ取りや鬼ごっこです。

今日はゆるゆる自由連想で。

幼児教育の先進国と呼ばれるヨーロッパの国々の幼稚園・保育園はクラスは3~5歳の異年齢児クラスが普通です。

昔の日本でも寺子屋は異年齢集団だし、お兄ちゃんお姉ちゃんがより小さな子と遊んだりお世話をするのは近所の子も含めて珍しい光景ではなかった。

社会に出ると職場は異年齢組織になってます。
園のお外遊びも異年齢で遊びます。

異年齢集団で過ごすことはお兄ちゃんお姉ちゃんにとっても、小さな子にとっても脳の前頭葉の部分がよく働くそうです。大人がよく注意すれば異年齢で過ごすことは発達のことを考えるとその方が有利だったりします。

1世帯あたりのきょうだいの数が少なくなり、昔のような近所同士で子どもの群れが自由に遊べるところって少ないし、そもそも地域のつながりが今は希薄なので、そこを園の中で代替するという見方もできます。

すみれぐみのお友達は魚釣りをしているんですね。

魚を釣るとか、料理するとか、また速く走る、高くジャンプする、とか大昔まだ人がマンモスなどを狩っていた時代に生きるために必要な身体能力とか情緒を身につける無意識的な練習が子どもの遊びだと言われます。

ということは、意欲とか興味関心とかもともと備わっているんですよね。大人はそれを前提にどの方向にアンテナを立てるかだと思います。

一度アンテナが立てば、例えば草花に対してアンテナが立てば、大人になって忙しくて走って道路を渡るときであってもアスファルトのスキマに小さな花が咲いてたら、そこで筋肉の緊張が少しゆるむかもしれません。
いつもいつもトップスピードで情報とプレッシャーの中走り続けていたら、どこかで病んでしまっておかしくないときでも、道端の小花ひとつでその危険が減るかもしれない。

大人がアンテナを立てるというのはそんなゴールをイメージしながらということにもなりますよね。

それと、梅雨はどこにいったんだろうか、、いい天気が続きますね。


行事の意味について

  • 2021/05/27

ももぐみさんのお友達はモンシロウチョウと何のバッタかな?網で捕まえたのかな?
もうすぐカマキリなんかも出てきてカマキリににらまれたりして、虫はホントに想定外の連続。
モンシロチョウは2匹でヒラヒラ飛んでることが多いですね、あれはツガイということかな。。

二十四節気をさらに細かく分けた七十二候の中にちょうど今ぐらいは「カマキリ出る」とあります。

ここで行事について考えてみます。

1年12カ月、二十四の節気の中で大昔から、原則、奇数の月と奇数の日が重なる季節の変わり目の節目の日に、次の行事が連綿と受け継がれてきました。

3月3日→上巳節(じょうしせつ)→桃の木で邪気を払い家族や子どもたちの無病息災を願う行事→ひなまつりへ
5月5日→端午節(たんごせつ)→菖蒲の葉っぱで邪気を払い家族や子どもたちの無病息災を願う行事→端午の節句、子どもの日へ
7月7日→七夕節(しちせきせつ)→笹の葉を立てて家族や子どものたちの無病息災を天に祈る行事→たなばたまつりへ
8月15日→中秋節(ちゅうしゅうせつ)→満月に家族や子どもたちの無病息災を願う→中秋の名月、お月見へ
9月9日→重陽節(ちょうようせつ)→菊の花で邪気を払い家族や子どもたちの無病息災を願う
1月1日→春節(しゅんせつ)→中国では爆竹を鳴らして家族や子どもたちの無病息災を願う→節分へ
(旧暦と新暦は数週間~1か月ほどのズレがあります。)

昔は医療も今のように発達していなくて、疫病や災害などで子どもの健康や安全も常に脅かされていた状態で、昔の人が心から願った節目の行事が今にも残っています。

園では、これらの行事から宗教的なものは中立にして、大人から子どもたちへ健康に育ってほしい、ということを伝えるメッセージの場として、行事をとらえています。
こうしたメッセージを伝えるためのツールとして、桃の花でも、ひな人形でも、笹の葉でもこしらえて、その季節にふさわしいメッセージと思い出を子どもたちにプレゼントする、という趣旨でとらえています。

逆に言えば、この趣旨が貫徹できないもの、一方的に子どもたちに何かをさせているが、子どもたちは意味がわかってることはなく、何か作って終わり、何か歌って終わり、にはならないように注意しています。なぜかといえば、子どもたちの活動には日々の活動と同じようにネライが欲しいからで、こうしたメッセージ性の強い行事をすることによって子どもたちの勇気づけにつなげたいからです。


(9月9日の重陽の節句というのは今はありません。旧暦の8月15日中秋の名月は新暦の9月21日ころなので、この辺あたり中秋の名月を愛でる、ということもアリかなと思います。)


パン屑

  • 2021/05/26
たんぽぽぐみさんのお友達、風、やわらかい芝生、温かいお日様、鳥の声、シャボン玉、こうしたものを通して大人と過ごした記憶は残っていると思います、後で思い出せないだけで、残っていると思います。

キッズノートの記事に書いている通り子どもたちは自分の目や耳や手など五感を使ってそれらの感触を確かめていると思います。

シャボン玉が流れていく思い出なんてずっと残っていると思います。卒業記念に木を植えたりしますが、思い出に残るシンボルって不思議と自然のものですよね。

マリア・モンテッソーリ女史が、発達に課題を抱えた子どもがたまたま食事のときに、床に落ちていた小さなパン屑を熱心に何度も拾ってはテーブルに置く動作を繰り返しているのを見て、「この子はパン屑を拾う、という小さな行動を通して自分の感覚を確かめている、これは当人の発達課題にとってきっと意味のあることに違いない」と考え、子どもたちの五感に働きかける教育(モンテッソーリ教育)を始めました。(記憶が一部違うかも)

このモンテッソーリ教育法は日本でもかなりお馴染みだと思いますが、五感を使う教具を用意して子どもが手仕事を通じて五感の発達を期する、というもの。
私はモンテ教育のことは詳しくわかりませんが、教具を見ても、岩崎保育園にある遊具や遊びと似ている、共通点があると思います。

教具にも遊具にも本物は例えば積み木にキャラクターの図柄がプリントされたいたり、ひらがながプリントされていません。
子どもたちが好奇心を持って活動するときに積み木の展開とプリントの図柄と2つ以上のものに興味が分散されてしまうから、と見ます。
好奇心・関心・興味が散ってしまうと、子どもたちは不思議と落ち着かない集団へと移行してしまう面が多々あります。

そしてフレーベル、モンテッソーリ、こうした一種の天才達が小学校入学前の土台となるもの(レディネス)があると発見したところから幼児教育・保育の歴史が単なる託児やベビーシッターの世界から前進したと言えると思います。

目が見えない、耳が聞こえないヘレンケラーが子どものときに先生がてのひらに水、と書いて水を触ってみたところから一気に世界が広がった、という有名なシーンがありますが、これも典型的な五感に働きかける方法だと思います。



恩物のこと

  • 2021/05/25
たんぽぽぐみの様子。ポットン落とし。赤ちゃんは穴が開いてたら手を突っ込むし、壁に扉があれば開けるし、タンスがあれば引き出しを開けて中の物を出そうとするし、積み木のピースがあれば積もうとする。

フランス革命の騒ぎの中で両親を失って傷ついた子どもたちをスイスのペスタロッチという先生が自分の農場に引き取って集団で一緒に農作業をしました。

ペスタロッチさんは一緒に農作業をする中で子どもたちに怒鳴りつけたり高圧的に命令することはなく、両親を失い泥棒をして生活をしていたような子どもたちは最初は心を閉ざしていましたが、次第に笑顔を見せるようになり、最終的に率先してペスタロッチさんのお手伝いをするようになりました。

このときペスタロッチさんの農場に留学に来ていたのが若い日のフレーベルです。フレーベルはやらされる労働ではない自発的な農作業に子どもたちを成長させる力があることに感銘を受けました。
そしてもうひとつ、穴があったら手を突っ込んだり、扉があったら開けたり、木片があれば積んでみたりする子どもの好奇心を刺激して、いろんな潜在的な力を引き出す物を意図的に作りました。
これが最初の積み木です。フレーベルはこれを恩物と名付けました。

ペスタロッチさんの取組から着想したフレーベルはドイツに帰って、園舎、園庭、畑の3点セットからなる「幼稚園」を考案して世界最初の幼稚園を開園しました。
幼稚園には畑が備わっており、たくさんの恩物(積み木)を置きました。

写真にあるたんぽぽぐみのポットン落としも担任の手作りの恩物ということになりますね。

最初の幼稚園がドイツで誕生したのが1850年代くらい。日本では幕末、安政の大獄などの騒ぎが起きていたころです。

それまではヨーロッパでは何かあると学校でも子どもたちをムチで叩くことがある教育法でした。それに子どもはひとつの産業労働力としてみなされた時代でもありました。
フレーベルはそれに異を唱えました。フレーベルは子どもたちは「花々のように育つべき」と提唱しました。

するとフレーベルの考えに反対する人々が出てきました。フレーベルの作った幼稚園は経済力のある家庭の子どもしか入園できないというのが反発のひとつの理由であったそうです。こういった恩物を揃える保育というのはカネがかかるのです。当時のドイツ政府は一時幼稚園禁止令を出しました。が、その間に幼稚園はまたたくまに世界中に広がりました。ドイツでも10年後に幼稚園禁止令が廃止されたくさんの幼稚園ができました。

恩物というのはキリスト教に関係したネーミングらしいのですが、岩崎保育園はクリスチャンの系譜はありません。

岩崎保育園は子どもたちの好奇心・探求心などを育む恩物にかなりの予算を投資しています。日本では幼稚園も保育園も同じ指針です。岩崎保育園はそこに忠実にあろうとしています。
上記はその歴史的な背景でした。







お猿の影ぼうし

  • 2021/05/24
年長さんは紙芝居をきっかけに、光と影遊びが始まったそうです。

どうして影ができるかという問いに「わからないけどいつもそこにある」と答えたお友達がいたそうです。

夏至の日に影は一番短くなり、冬至の日に影は一番長くなる。
どうしてなのかわからないけど、身の回りは一定のリズムを持って運行している、という感覚はこの時期必要だと思います。

二十四節気を見るとわかりますが、春は冬で寒くて寒さが極まっていくところまでいってぽっと春になる、と見ます。
秋は夏が暑くて暑くていきつくところまでいったときにぽっと秋になる、と見ます。

冬がだんだん温かくなってきてスムーズに春になるのではなく、夏がだんだん涼しくなってスムーズに秋になるのでもない。

スポーツ選手でも、ずっと成績伸びていたのに、なぜか伸びない時期がずーと続く(プラトー現象)ときがあります。ずっと止まって成長できない感じってキツイと思います。プラトーに入った人はその間に体調やメンタルの調子もおかしくなったりする。

私たちヒトの発達過程もこれと同じで、スムーズに45度の直線で発達を続けるのではなく、個人によってずっと立ち止まっている分野があったり、メキメキ成長するときもあれば、いつまでも行きつ戻りつを繰り返して、一体成長しているのか退行しているのかわからない。というケースもあると思います。

ですので、子どもの場合、周囲の大人が発達については、どうも他の子と違う、と感じる出来事があったら、可能性として一種のプラトーの時期なのか、季節の変わり目みたいに風が吹いている時期なのか、ということも考慮に入れる必要があると思います。

特に特定の分野で能力の高い子であればあるほど、幼少期に周囲が心配するタイプだったというのは珍しくありません。

二十四節気から来るメッセージはそんなところにもあります。他にもあります、また次回に。




文字を書く前に

  • 2021/05/22
さくらぐみのお友達が絵本の絵をそのまま描き始めたら、クラスのお友達も描き始めて絵本を作っちゃおう、という活動ですね。

言葉が出始めたころの子どもは白い紙にバチバチ点を打ったり、ぐるっぐるっとマルを描いて「パパ」「ママ」「ニーニ」「デンシャ」などと言いながら描いています。

だんだん、生活や遊びの中で肘と手首の動きが滑らかになってくると、このマルに手足が生えはじめて人間の形らしくなります(頭足人)

だんだん胴体が描くようになり、髪の毛が生えたり目や口を描いたりという段階まできます。

このとき、ぐるっと閉じた一重のマルが描くことができるか、描こうとしてもどうしても最後に線がつながらない子もいます。

またきれいに交差された十字が描くことができるか、これも簡単そうで、なかなかすっと描けない子もいます。

これらがスムーズに描くことができない子が、いきなりひらがなを書く練習に入っても、妙なクセがついたり、つまりひらがな学習に入るにはまだ早いのだと、発達心理専門の先生が公表しています。

ひらがなは漢字と比べても曲線が多く、案外難しい。

ここで、閉じた一重マルの練習をさせたり、交差十字の練習をさせても、させられている子どもにストレスが多いばかりでメリットはないと思います。そして閉じた一重マルが描けない、交差十字が描けないからといって、それだけ発達のスピードはゆっくりなだけで他の子と比べて劣っているわけではありません。

くつろいだ雰囲気と、遊び込めるお部屋の環境の下で、写真にあるような自ら楽しく自由に描く体験を積み重ねて、自然とひらがな練習に入ることができる時機が熟したときにひらがな学習に入る、そうするとスムーズにきれいなひらがなを書くことに無理なくつながることになります。

数字や計算の仕方についての感覚も同じ見方をしています。発達の原則として、何かの発達課題を飛び越して次の段階の発達課題をクリアできることはない、と見ます。

赤ちゃんのハイハイやつかまり立ちと同じようにどの段階にも大切な意味があると思います。

サッカーボールに慣れ親しんでサッカーボールを自分で任意に転がしていく遊び体験を飛ばして、いきなりドリブルやシュート練習などさせても大人が期待するような結果は出ないとも見ます。

岩崎保育園のサッカーコーチに来てくれるギラヴァンツも会社としてキッズ指導についてはこの方針です。

他の活動や計画、カリキュラムも同じ考え方をしています。




二十四の季節

  • 2021/05/21

ももぐみが朝顔の種を植えたそうです。
2週間くらいで芽が出ますかね。この2週間くらいの間隔で季節は移っていく、と大昔からそう見られていました。

2月4日ころ まだ寒さは厳しいものの、強い南風(春一番)が吹くことがあるころ。
2月19日ころ 降り積もった雪も溶けだすころ。
3月6日ころ 大地が温まってきて目覚めた虫が顔を出すころ。
3月21日ころ 昼夜の長さが同じになるころ。この日から昼がだんだん長くなるころ。
4月5日ころ 草木がいきいきして花が咲くころ。
4月20日ころ 弱い雨に農作物が潤うころ。
5月6日ころ 新緑がさわやかに濃く感じられるころ。
5月21日ころ 草木が伸びてどんどん茂るころ。
6月6日ころ 穀物の種をまくころ。
6月21日ころ 一年で最も昼が長いころ。梅雨のシーズン。
7月7日ころ 梅雨が明けだんだん暑くなるころ。
7月23日ころ 夏の暑さが本格的になるころ。
8月7日ころ 厳しい残暑のころ。
8月23日ころ 暑さが徐々におさまり朝晩涼しく感じ始めるころ。
9月8日ころ 草花に朝露がつきはじめるころ。
9月23日ころ 昼夜の長さが同じになるころ。この日からだんだん夜が長くなる。
10月8日ころ 草木に冷たい霜が降りるころ。
10月23日ころ 紅葉が盛りのころ。
11月7日ころ 木枯らしが吹き始めるころ。
11月22日ころ 樹木の葉が落ちるころ。
12月7日ころ 太陽が1年で最も低い位置になり1年で最も夜が長いころ。
1月5日ころ 冷え込みが厳しく川の水も氷るころ。
1月20日ころ 冷え込みが極まり最も寒さが厳しいころ。

ももぐみさんは、この大体2週間ごとに進む二十四の季節の中でちょうど種をまくころにタイムリーに種をまいていることになりますね。

これは二十四節気と言いますが、最近は温暖化の影響とかがありズレてるところもありますが、日本に住んでいればどこでもこの季節の進行は日々の生活の中で体感できます。

草花を育てていたり、農業をしていたりすると余計に体験として実感すると思います。

私たちの体調や社会生活もこれらの変化に応じて変わっていきます。昔からの行事はこれらをもとに受け継がれている面が大きいです。

ということは、子どもたちの保育にも当然これらを見込んだものとなります。また次回に。





いろんな見方

  • 2021/05/20
たんぽぽクラスの遊びの様子では赤ちゃんの喜怒哀楽がはっきりわかりますね。赤ちゃんの写真というと笑っているか泣いているかが定番ですが怒っっている瞬間というのもわかりやすいですね。

赤ちゃんが泣きわめくときには体調のことを心配しますが、体調のことではないときに、大泣きは自分の身の安全を確保するための、周囲の人からお世話をされるための信号の意味があると言われますよね。
これって自分の安全のために周囲の人に所属するというはっきりした目的があります。

そして年齢を重ねていっても、喜怒哀楽には目的がある、という見方をすれば子どもたちの行動を理解するときにそれほど難しくなく、対応の仕方も自然とわかるときがあります。

もう大きくなって言葉も覚えてお兄ちゃんお姉ちゃんになっても何かと泣きわめくことばっかりとすれば、注目されてお世話されることが目的なんでしょう、だとすれば注目されて自動的にお世話されることで所属しようとしているんでしょう、と解釈できます。
泣きわめいている本人は周囲への対人的な所属の方法がわからないか、わかっているけどできないと思い込んでいるか、わかっているけど面倒くさいと思っているのか、他の子と比べてしまって劣等感を刺激されているのか、たとえその辺がわからなくても、


「ダンゴムシを私と一緒につかまえてみよう。あの石をひっくり返してみるぞ。重たいぞ。」「私と一緒にこの背の高さまでは積んでみようかね。壊れるかもれんけどちょっとあなたと積んでみたい」「君が赤ちゃんならキックできないけど、サッカー選手ならあの間に3回はキックできるね、そのうち1回はゴールに入るかもね、お母さんが見たら喜んで拍手するだろうね、君が赤ちゃんなら困った顔をするだろうね、君が決めるんだよ、どっちがいいの?」などなど、とりあえず対応の方向は捉えることができます。

この感情には目的がある、という見方は問題を整理しやすく解決の方向を導きやすい見方だと思います。

こういう見方は、例えば子どもが相手の場合、子どもは自分の言動の目的を指摘されると、さらに泣き出したり、怒ったり、ぺろっと舌を出して照れたり、顔が赤くなったり(認識反射)、ああ図星だな、とわかりやすいこともあります。
ということは、それだけ真実に近い考え方なんだろうと思うのです、この感情には目的がある、という見方は。


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