エントリー

2021年06月05日の記事は以下のとおりです。

トモダチ作戦

  • 2021/06/05

さくらぐみのお友達はダイコンを収穫しました。
青虫とかシャクトリムシとか、大人が本物を見るとかわいい+グロテスクな感じがしますが、それがはらぺこあおむしとして表現されたり、綺麗なモンシロチョウに変化するところが青虫物語として子どもたちにとってロングセラーな魅力になるんでしょうね。

東北の大震災のとき、破壊的なあの状況の中で海の向こうから2万人を超えるアメリカ軍の皆さんが救援やがれきの撤去作業のためにやってきました。
「トモダチ作戦」と名付けられたこの作戦によって、アメリカの兵隊さんたちが地元の人たちと一緒に力を尽くしました。
ネットで「トモダチ作戦」と画像で検索すると、上の方にでっかいアメリカ兵と地元の小さな子どもがタッチしている写真が見えます。

この子とこのアメリカの兵隊さんは仲間でしょうか他人でしょうか?(政治的なことはここでは置いとくとします)

アメリカ軍の幹部がこのトモダチ作戦を実施した動機として「ニューヨークの同時テロのとき、日本の消防隊が駆けつけてくれて力を尽くしてくれたからだ。」と語りました。

個人に置き換えて、普段は遠くに離れていて話もしないような人とか、近くにいても特に仲良しというわけではないけど、自分が困ったときやピンチになったとき、何か被害を受けたときとか、自分のために親身になってくれる人がいるとか、共に課題解決に力を尽くしてくれるとか、アドバイスを考えてくれるとか、そういう人たちがいる、存在する、という感覚が所属の感覚、自己肯定感の高い感覚、自尊感情が高い感覚、でした。ですからトモダチ作戦のこの子どもと米兵さんは仲間なんですね。

私たちは皆誤解しがちですが、いつもそばにいて同じことをしていて、気持ちを共有して、自分の言うことなすことすべてに共感してくれて、何をするのも一緒、やり方も一緒みたいな状況はそれ自体はリラックスタイムとかお茶のみ友達として生活の中のうるおいのシーンやストレス解消シーンとして必要があると思いますけど、ただそれだけで本当の仲間・友人・友情といえるかどうかは微妙だと思います。

前回のように相互依存にまで進んでいくと、いつも一緒に寄り添ってくれることが当たり前になり、共感し合うことが当たり前になり、少しそうならないシーンが出てきたら相手に不満を持つようになり、相手が自分を裏切らないか観察して疑心暗鬼になり、どうしてこうしてくれないの、言ってくれないの?と要求になり、ネガティブに反応された相手も陰性の感情を起こして関係が破綻する、どこにである典型的な依存関係パターンも日常的にありふれているように思います。

対子どもとの関係も似たところがあると思います。
大人の方は良心的に子どもたちに一生懸命尽くしているのに、子どもたちの方は「どうしてもっと僕を見てくれないの?」と満足せず要求は際限なくエスカレートしていく、大人は「どうしてこんなに一生懸命しているのをわかってくれないの?」、とエネルギーを吸い取られるようなやりきれなさを感じる、こんなふうにお互いフラストレーションが高まっている状態だったら依存関係になってないかな?と考えてみると解決策は簡単に見つかるでしょう。

写真の米兵を見た子どもの中には「かっこいい、自分もあんなふうになりたい。」と思う子もいるでしょうし、仮に米兵さんがその子に「君は赤ちゃんなのか?」と言えばその子は「僕は違うぞ!」となるでしょう。ぱっと聞いた感じそういうところには依存の芽はなさそうです。

子どもたちを依存する、させるのではなく、活動の方に気持ちを向ける、勇気づけをする、その中から仲間って何かを体感する、子どもたちがその深い意味をわからなくてよい思います、体感する。大人がすることはここまでで、あとは子どもたちが何を感じ取るんだろうと思います。

(ただ、軽い依存は日常的にどんな人間関係でも多少はあります。それで社会的に不都合はないから。)

ページ移動

  • < prev
  • next >
  • ページ
  • 1