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ピーマンアンテナって何

  • 2021/06/12

さくらぐみのお友達は園庭の畑でナスやピーマンを育てています。植物の栽培とか動物の飼育(ここでは飼育はありませんが)は詳しくは入りませんが、専門的に見ても相当の体験とメッセージを子どもたちにプレゼントしてくれるみたいです。

これは機会があれがまた触れるとして、子どもたちがナスやトマト・ピーマンの変化に関心を持ってお世話をする、ことをネライとした場合、子どもたちがどうも関心が薄いよなあ、という場合はどうでしょうか。

私は植物を育てたり、他の取り組みでも同じだと思いますけど、仮に子どもたちの一部がそれに興味関心を持つまでいかなくても、この場合だったら、ナスやピーマンにアンテナが立てばそれでよいと思います。

少なくとも、ナスやピーマンの赤ちゃんが目の前にあってすぐ「ピーマン!」と声が出たことはポンとピーマンにアンテナが立った瞬間だと思います。

それはお部屋に帰ればなくなって消えてしまうアンテナではなく、おそらく生涯の「ピーマンアンテナ」が出来た、ということでしょう。

これからピーマンを見れば少し大きくなったぞ、とアンテナに引っかかり、雨が降ればピーマンに雨が降っていると思ってアンテナにひっかかり、それを誰かに伝えようともするでしょうし、ピーマンを食べることを想像するでしょうし、大人になったら他の植物にも植物アンテナが立って町を通ることが少し気づきが多く楽しくなるかもわかんないし、料理に興味を示すようになるかもわかんないし、どんな野菜が体にいいか子どもに教えようとするようになるかもわかんないし、ピーマンの値段の上がり下がりを見て農家の事情や世の中の景気の動向を考えるようになるかもしれないし。

もちろん一日中ピーマンのことばっかり考えて夜寝るときもピーマンが出てきて眠れない!みたいなことにはなりません、そうなるのは嫌々ながら無理やり強制的にピーマン栽培をさせられた場合だと思います。だからこうした方法はとらないようにします。

まるで複利計算みたいに保育園で立てたピーマンアンテナが大人になってもたくさんの情報を拾い続け、その子の心身を助けてくれるんじゃないかな、という大切なアンテナだと思います。

そしてこれはピーマンアンテナだけじゃない、先日のシンデレラアンテナ、積み木アンテナ、わらべうたアンテナ、環境に応じて無数のアンテナが子どもたちに立てば、そこから雪だるま式に子どもたちの知識・ノウハウ・情操は育っていく、というサイクルになっています。

何か情報商材の売り込みみたいな言い方になっていますが、本当にそう思います。

なので、子どもたちのアンテナがぴょこんと立つように楽しい方法と楽しい活動の中でよりたくさんのアンテナを立てたいなと思います。

少し梅雨らしくなったんですかねー

後戻りできないから

  • 2021/06/11
わらべうたは決まった音階しか使わないそうで、これで子どもたちが引き込まれ笑顔になるのが不思議です。
このことは音楽のプロの先生もわからないと言ってましたが。

昨日の続きで、ティーンエイジャーのことは園のカバー年齢外なのですが、幼児期の発達を見る時くっきりするので簡単に見てみます。

ある程度の大人に対する信頼感や、いい悪いを区別することや、お友達と過ごして一緒に遊んだり葛藤したりの体験を積んではじめて、自己同一性 対 自己同一性の拡散の時期に入ります。だいたい13歳くらいから22歳ころまでとなっています。長いですね。
思春期です。

この時期くらいになると、自分のみんなの中での立ち位置とか、みんなからどのように見られているか、周囲や広く言えば社会から求められていること、などが客観的に見え始めます。
自分の欲求・プライドと、自分の立ち位置、社会からの要求に大きなズレがなければ心身ともに健康に発達するでしょうという感じなのですが、これが大きくズレていると葛藤も大きくなるでしょう、というところ。

みんなから客観的にどんなふうに見られているんだろう、みたいなところから鏡を見ることが多くなり、これまでの広く浅いお友達付き合いが、いつも何でも自分を認めてくれる親密な友達と一緒に過ごす時間が増えたり、大人からの期待が重苦しく感じ、時には彼らの世界がブラックに見えて反発したり、反発しなくてもギャップに人知れず悩んだりという世界に入ってきます。

これはみんな経験し通過する道でもあり、親友やメンターに恵まれればハッピーなんですが、幼児期・学童期から人に対する一般的な不信感とか疑惑、恐怖心が必要以上に強いまま、こうした時期に入るとどうなるでしょうか。これが「自己同一性の拡散」と呼ばれるものですが、ここでは述べません。

この時期に自分の立ち位置はここなんだ、自分はこんなふうな人と見られててそれは心地悪いことではない、「自己同一性=アイデンティティ」という難しい言い方をしてますが、これを獲得すると、次の段階へステップアップしていくことができる。

この時期に自分のアイデンティティを獲得できないと、ずっと同じ種類の悩みやお友達付き合いのパターンが続くということになります。

あ、自分はどうも対人恐怖感が強いから、3歳半に戻ってそこから仲間と過ごし直そう、と思ってもそんなことは出来ないので、保育園にいて過ごしている時期のタイミングを逃さないようにしたい、ということでもあります。


わらべうた

  • 2021/06/10

たんぽぽさんのお友達はわらべうたに包まれて笑顔に。マザーグースは外国のわらべうたですが、絵本になってて母と子が歌と絵本でやりとりして楽しむことができるとあります。
日本のわらべうたも絵本が出てないだろうか。

昨日の続きですが、6歳ころから12歳くらいまでの発達課題は 勤勉性 対 劣等感ですね。これも物々しい言葉です。

ちょうど園でいうと年長さん後半から小学校の時期までです。

1歳半から自分でいいこと悪いことを判断して自分で行動をコントロールできる芽が育ってくる、3歳半からお友達と活動する中でその子の思ういいこと悪いことを適用したり、自分の判断が受け入れられり拒絶されたりしながら、受け身にまわることなくお友達との関係を自ら築いていく態度が育ってくる、その後ですね。

これはお友達・仲間と体験や話、モノなどを共有することによって、将来集団に所属するために必要な相手と共存できるような生活体験を積み重ねる必要がある、くらいの意味合いです。
4,5歳くらいの幼児ならお友達と一緒に関わることの繰り返しですが、6歳ころから、お友達とモノ・コトを共有する体験の量がその後の発達にとって必要になってくる、という感じです。

たいそうなことではなく、給食当番としてオカズをお皿に不公平にならないように取り分ける、とか、一緒にサッカーをする、アンフェアなことがあれば抗議したり、トラブルになれば話し合う、おしゃべりから口ケンカもあるでしょうね、そういう共同体験の量が大事になってくる時期。

このお友達と何かを共有する体験が不足すると、自分の都合ばかり言って人としょっちゅうトラブルを起こすとか、要領がいいわりには相手に対する本当の支援感情が乏しく思いやりがないと思われてしまうとか、人にマウントばっかりしてて人が離れていくとか、いつも上から目線だったり人をコントロールして支配する傾向が顕著だったり、これらも社会に出るとどんどん自分の居場所を縮めてしまいますよね、こういう未来を避けよう、ということにもなります。

極端な例ですが、皆さんは園の子どもたちの集団はどちらの姿がいいですか?

1.みんなそれなりの個性があって笑顔が多く運動会や発表会の出し物や演目は多少デコボコバラバラしているけど、おやつのパンが2~3個足りない時はそれぞれのパンをちぎったりナンダカンダとみんなで分け合いっこするクラス。
2.みんな同じ姿勢で行儀が良く、笑顔が少なくて運動会や発表会の出し物は完成度が高く感動的で、おやつのパンが2~3個足りない時はみんな先生が何というかきちんと聞こうとするクラス。

実際にパンが2~3個たりなくなるようなシーンはありませんが、子どもたちのその後の将来を見たとき、自分の仕事、会社員でも自営業でも、自分のやるべきことにコミットできるか(勤勉性)、それとも自分のやるべきことを避けようとするか(劣等感)、この時期の影響が大きいとしたら、1の方がいいと思います。

ああした方がいいじゃないか、違うよこうしてみよう、パンをちぎってこれとこれが同じ大きさで・・・こういう輪の中にその子が入れているかな、入れていないかな、ポツンとしてたり、スネたり圧倒されたりしてないかな、我関せずの無関心だったり、そういうお友達を馬鹿にしてたりしてないかな、そんな見方もします。

お友達関係

  • 2021/06/09

ひまわりぐみのお友達は電灯で光と影の不思議を体験中。

3歳半から5歳くらいまで、の発達課題は積極性 対 罪悪感、ということですが、また深刻な言葉ですね。

これはざっくり言えば、それまで保護してくれる親とか保育士さんなどとの関係から、友達同士、仲間同士の関係に人間関係が広がっていきますよ、友達同士仲間同士の関係が良くなるように大人が手助けする必要がある時期、という感じです。

昨日みたいに友達同士虫を追っかけてるとか、写真のように友達同士懐中電灯をああでもないこうでもないと試行錯誤したり、そういうことを体験しなければいけない発達段階だということですね。これも当たり前のようですね。

この友達同士群れて活動する体験が不足すると、大人になってから、友達同士においても、仕事とか社会人としての行動においても、人ととの距離感がわからない状態が出てくるかも、というところです。

「子どもへのまなざし」にある話ですけど、ある人に対して、こちらが親しく歩み寄るとすっと避けられてしまう、関心がないのかと思って止まると相手は何らかの関りを求めて近づいてくる、こういうタイプの人とか確かにあてはまりそうです。

人と関わりを求めているんだけど、過剰に評価を恐れたり、変な人と思われたらどうしよう、とか、何かいい人と思われなければならない重荷がどこかにあって人が来ると緊張するとか、一緒にふざけたり何をしても許される関係なら普通だけどきちんとした場では急に卑屈になったり、エリクソンの言う罪悪感みたいな感じですね、本人は自分はなんて繊細なんだろう、などと苦しんでいて、周囲の人たちからすると腫れ物に触るような思いをしている、こうした生きづらい思いをしている人はけっこうたくさんいるみたいです。

現場では、こちらに無関心なのかと思っていたらこちらの一挙手一投足を観察していたり、何か優しい言葉をかけるとガバーッと来て密着する、これはこうしなければいけないよ、と言ったらバサーっと離れてお前は敵だー!みたいになる、イロイロ話しているとまたベターッとくっついてくるけど、何かチラっと本音を言うとどーっと引いて身構えるみたいな、幼児くらいの年齢ではこういうことを繰り返して友達関係を築いていく体験が必要なのだ、という意味で、この体験が不足すると、これらの行動が大人になっても出てくる、ということになります。

園の中では、このお友達同士活動する、という体験が少ないまま、みんなで先生の方を向いてワーク帳ばかりしているとか、長期間みんなで先生の方を向いて行事の練習ばかりしているとか、そういった状態を避けよう、という趣旨でもあります。









昆虫図鑑

  • 2021/06/08

すみれぐみのお友達はサーキットに図鑑と虫カゴを持っていろんな昆虫に出会っているみたいですね。昔から「虫のふしぎ」とか「これが日本の昆虫だ!」とか図鑑は変わらず子どもたちに人気ですね。昭和から夏の風物詩みたいになっていますが、虫やトマトのお世話をして興味シンシン観察する年代。

1歳から3歳前半ころまでは、心理的課題として「自律 対 恥、恐れ」の間を行ったりきたりするのだ、という発達段階がありますが、すみれぐみさんの今頃はちょうどそのクライマックスみたいな時期ですね。

1歳ころから「自律」とは早いような気がしますね。これは「自立」ということではなく、「自分で判断する芽を育てるんだ」みたいな意味ですね。

1歳ころの子が積んでる積み木に手を伸ばしたらガシャン!と崩れてしまった、その子は周囲の大人や親の方にすぐ顔を向けて、大人の反応を確かめますね、大人は「いいのよ」という受容的な表情をしたり、「こっちで遊ぼう」など大人がそばでその子の行動に反応していきましょうね、とざっくりそんな意味です。

その子はそうして周囲の大人や親の反応を確かめながら、自分の中で参照枠というか、いいこと悪いことなどを覚えていく、そうして自分が行動するに際してこれはいいことか悪いことか、どこまで具合がいいのか危ないことなのか自分で考えて判断するような大人になっていく、いうことですね。

聞いた感じ当たり前のような気がしますが、子どもが積み木を触ってガシャン!と崩れた、その子が反射的に振り向いたら極端に恐ろしい形相をした大人がいて、ひどく怒鳴られたりすると、その子は積み木がどうのこうのという前に大人を怒らせない方に自分の行動を調整していくでしょう、「恥、恐れ」の感情ですね、逆に何をしても優しい優しい態度だったらその子は何がよくて何が具合が悪いのかわからなくなってしまう。

誤解されがちですが、何でもその子の言うことなすこと優しく受容する、というのはマズイ。その子がイケナイことをしたら「いけません」「それをしてはいけません」ときちんと表情などでその子に伝える必要があります。

また同じように積み木が崩れてその子が大人の方を振り向いたら誰もいなかった、または、その子が手を伸ばして積み木が壊れる前に大人が先回りしてササーと積み木を片付けてしまった、という場合なんかは?

その子が自分の中で何がいいのか悪いのかの枠が育たず、何がどこまでいいことなのか悪いことなのか内容や程度がわからず、何が人から喜ばれ何が人を怒らせるかわからない状態になり、大人になったときに自分で判断せず、いつも人の目を気にするしかやりようがなくなったり、人が見てないからやってもいいだろう、とか、人が見てる前だけいい人になっておこう、とか、逆にいつも対人関係が悪くなるので開き直ってスネた感じの人になったり、あまりよくない未来が造り出されるかもわからない、ということですね。

エリクソンの発達の話は、いろんなシーンで役に立ちます、ネットでもたくさん出ています。

その子は自分で自動的に自分の行動の意味とかルールがわかるようになってなくて、スタートは周囲の大人の態度に依存しているということでもあります。








オオカミに育てられた少女

  • 2021/06/07
ももぐみさんお友達のごっこ遊びです。子どもたちはお家の人などを真似てテーブルを拭いたりフライパンで調理したり、大人の真似をする学習力は強力みたいです。

有名な話なので、皆さんご存知の方もいると思いますが、インドでオオカミに育てられた少女が発見されたことがあります。

確か学童くらいの年齢で人間社会に保護されたのですが、オオカミが人間の女の子の育児をしていたんですね。

オオカミに育てられたその女の子は二本足で立つことはなく、手と足を地面につけてオオカミと同じように四つ足で素早く移動しました。

オオカミそのものの声で遠吠えすることもありました。食べる時も手でつかんで食べることはなく、オオカミのように手で食べ物を動かないように押えて口を食べ物の方に持っていって食べました。

この事実が証明しているのは、赤ちゃんがつかまり立ちをしたり歩行を始めたり、手づかみで食べたりスプーンで食べたり、笑ったり喃語を言ったりするのも、すべて周囲の人を観察して自分で学習しているということになります。

子どもたちは本能的には、大人の言っていることの内容よりも、大人の行動、表情、しぐさ、テンションなどを無意識的に吸収して取り込んでしまうところが多々あると思います。言葉使いもそうだと思います。

子どもたちは、ある意味、ある限度で大人の鏡であり、子どもたちの姿は大人のそれの投影かもしれない、そう考えると、子どもたちへの接し方についても、家庭との連携ということについても、かなり振り返りの質が変わってくるかもしれませんね。




トモダチ作戦

  • 2021/06/05

さくらぐみのお友達はダイコンを収穫しました。
青虫とかシャクトリムシとか、大人が本物を見るとかわいい+グロテスクな感じがしますが、それがはらぺこあおむしとして表現されたり、綺麗なモンシロチョウに変化するところが青虫物語として子どもたちにとってロングセラーな魅力になるんでしょうね。

東北の大震災のとき、破壊的なあの状況の中で海の向こうから2万人を超えるアメリカ軍の皆さんが救援やがれきの撤去作業のためにやってきました。
「トモダチ作戦」と名付けられたこの作戦によって、アメリカの兵隊さんたちが地元の人たちと一緒に力を尽くしました。
ネットで「トモダチ作戦」と画像で検索すると、上の方にでっかいアメリカ兵と地元の小さな子どもがタッチしている写真が見えます。

この子とこのアメリカの兵隊さんは仲間でしょうか他人でしょうか?(政治的なことはここでは置いとくとします)

アメリカ軍の幹部がこのトモダチ作戦を実施した動機として「ニューヨークの同時テロのとき、日本の消防隊が駆けつけてくれて力を尽くしてくれたからだ。」と語りました。

個人に置き換えて、普段は遠くに離れていて話もしないような人とか、近くにいても特に仲良しというわけではないけど、自分が困ったときやピンチになったとき、何か被害を受けたときとか、自分のために親身になってくれる人がいるとか、共に課題解決に力を尽くしてくれるとか、アドバイスを考えてくれるとか、そういう人たちがいる、存在する、という感覚が所属の感覚、自己肯定感の高い感覚、自尊感情が高い感覚、でした。ですからトモダチ作戦のこの子どもと米兵さんは仲間なんですね。

私たちは皆誤解しがちですが、いつもそばにいて同じことをしていて、気持ちを共有して、自分の言うことなすことすべてに共感してくれて、何をするのも一緒、やり方も一緒みたいな状況はそれ自体はリラックスタイムとかお茶のみ友達として生活の中のうるおいのシーンやストレス解消シーンとして必要があると思いますけど、ただそれだけで本当の仲間・友人・友情といえるかどうかは微妙だと思います。

前回のように相互依存にまで進んでいくと、いつも一緒に寄り添ってくれることが当たり前になり、共感し合うことが当たり前になり、少しそうならないシーンが出てきたら相手に不満を持つようになり、相手が自分を裏切らないか観察して疑心暗鬼になり、どうしてこうしてくれないの、言ってくれないの?と要求になり、ネガティブに反応された相手も陰性の感情を起こして関係が破綻する、どこにである典型的な依存関係パターンも日常的にありふれているように思います。

対子どもとの関係も似たところがあると思います。
大人の方は良心的に子どもたちに一生懸命尽くしているのに、子どもたちの方は「どうしてもっと僕を見てくれないの?」と満足せず要求は際限なくエスカレートしていく、大人は「どうしてこんなに一生懸命しているのをわかってくれないの?」、とエネルギーを吸い取られるようなやりきれなさを感じる、こんなふうにお互いフラストレーションが高まっている状態だったら依存関係になってないかな?と考えてみると解決策は簡単に見つかるでしょう。

写真の米兵を見た子どもの中には「かっこいい、自分もあんなふうになりたい。」と思う子もいるでしょうし、仮に米兵さんがその子に「君は赤ちゃんなのか?」と言えばその子は「僕は違うぞ!」となるでしょう。ぱっと聞いた感じそういうところには依存の芽はなさそうです。

子どもたちを依存する、させるのではなく、活動の方に気持ちを向ける、勇気づけをする、その中から仲間って何かを体感する、子どもたちがその深い意味をわからなくてよい思います、体感する。大人がすることはここまでで、あとは子どもたちが何を感じ取るんだろうと思います。

(ただ、軽い依存は日常的にどんな人間関係でも多少はあります。それで社会的に不都合はないから。)

仲間と友情と競合と依存の関係

  • 2021/06/04
さくらぐみのお友達が「みち」絵本からサーキット活動につなげました。今はお友達同士の遊びがほとんどになってきた、とのことです。いいですね。

赤ちゃんは大人に全面的に依存する関係で、クラスが進級するにつれ身の回りのことを自分で少しずつ少しずつしようとして、心身ともに自分で出来ることが増えると同時に自分のしたいことも増えてきて、自分でいろんなことができるようになる、対人関係ではだんだんお友達同士でああでもないこうでもない、ああしようこうしようと一緒に過ごす時間が増えてくる、という、クラスの子ども集団として、いい方向に向かっています。

子どもたちの対人関係は(大人でも同じですが)、依存関係、競合関係、仲間関係の3つにざっくり分けられると思います。

まずひとつめ、競合関係。これは子ども同士がどっちが上でどっちが下か争っている関係、大人で言うマウントですね、または俺は上なんだぞとお友達を見下したり支配しようとする関係、または自分は下なんだと卑屈になる関係といったことです。
ただ、決められたルールの下で、競うのはこの時間帯、この場所で、で限定したうえで、裏表なく公正にジャッジする条件のスポーツは勝ち負けや順番を競ってはいますが、争ってはないと見ます。

これ大人の世界でも多いというか、ひょっとしたら半分かそれ以上そうした関係の中で動いてないですかね。
権限のあるオフィサーが権限のない人に対するハラスメントもそうだし、逆に変に卑屈になって被害者として人の揚げ足をとることばかりに莫大なエネルギーを使っている人も同じ競合関係とみます。

次に、ふたつめ、依存関係、赤ちゃんは依存することが自分で生存と発達のためプログラムされた戦略ですから、周囲の大人にかわいがられて衣食住すべて大人がそその子に代わってするのはもちろんです。

不都合な依存関係もあります。赤ちゃんではない年齢になっても、人がその子のできることを代わりにやってあげるとしたら、その子は自分でできることをしなくてよいので、赤ちゃん返りするでしょう、言動が赤ちゃんの方に退行することもあるでしょう。
肩代わりしている大人は良かれと思ってしているでしょうし、されている子どもは赤ちゃん扱いされて心地よく感じて赤ちゃん返りする。
対人関係上、一方は何かの動機で気持ちがいいのでしなくてよいことをする、一方はしなければならないことを人に肩代わりされることが当たり前になる、これが相互依存のひとつの型ですが、これもまた、大人同士でもとても多い現象です。

また例えば、ある人が何かの理由で気持ちがいいので、特定の人を標的にして悪口を言う、聞かされた方は何かの理由で無条件にそうだよねと共感する、共感された方は心地よくなってさらに悪口を言って共感してくれた人に共感する、そしてずっとその状態がループしていく、終わらんやん、という型もあります。

依存関係が不都合なのは、子どもの自立が妨げられるから、というのもありますが、実際に怖いのは薬物にでもお酒にでもギャンブルにでも人にでも依存している人というのは、依存していることに何かの快感を感じていて、困ったことにそうやって心地よく感じると、もっとお酒を持ってきて、もっと共感して、もっと私を見て、もっともっと・・・といつまでも続いてエスカレートしてしかも抜けられなくなることなんです。よくある依存症ですね。あまり本人に悪いことをしている、マズイことになってるという自覚がないために根が深いとも思います。

お酒とかギャンブルまでいかなくても、ネットで「対人依存症」とかで検索してみてみるとズラズラいろんな記事がヒットします。メンタルの病気の入り口でもあるので、気を付けなければいけないなと思います。こればっかりはですね、愛情かエゴか、シェイクスピアに出てきそうな永遠のテーマみたいです。

ですので、大人はともかく、幼児さんの生活の中で依存シーンがないかどうかは保育現場にいる人は注意して観察します。

では、みっつめ、仲間関係。幼児さんのクラスの人間関係はこっちの方向を目指しています。また次回に。


絵本の読み聞かせの意味

  • 2021/06/03
ちゅうりっぷぐみのお友達は絵本に入り込んでますね。

それぞれの絵本の面白さ、価値、意味についてはこのサイトのリンクページに貼っている小倉南区のどうぶつ島さんにお問合せすればスゴイ詳しいと思いますよ。

絵本の読み聞かせの意味は少なくとも3つあると思います。

ひとつめは絵本を読み聞かせる大人とのコミュニケーションの意味があると思います。読み聞かせる大人が怖い人だったら子どもたちは大人の方が気になって絵本の世界に入り込めないでしょう。大人の方が一方的に大声のハイテンションでまくしたてていたら、子どもたちはやっぱり大人の方が気になって絵本の世界に入れないでしょう。読み聞かせる大人の声や雰囲気と絵本は一体となって子どもたちに語りかけているのだと思います。そしてイメージの世界に入り込む。

ふたつめは遊びや活動の端緒になることです。前回のシンデレラのお城もそうでしたが、子どもたちの共通イメージを作るのに絵本は最適だと思います。

みっつめは、子どもたちが絵や言葉の表現とかリズムの中に入って、喜怒哀楽そのまんま、ムキ出しの感情表現、例えば泣きわめくとかかみつくとかそういう本能的な自分の世界、そしてある・ない、いい・悪いといった単純な思考、などを徐々に置き換える、というか、自分自身の中にあるイメージとか風景、ものの見方・感じ方の幅を広げている、と思います。

ムキ出しの感情、例えば気持ちが向かなかったりして「お家に帰りたーい!ママがいいー!」と泣きわめく子がいるとすると、それは悪いことではないと思う。

でも大人や思春期の青少年が「お家に帰りたーい!ママがいいー!」とはなかなか社会的に言えない。でも実家に帰りたい気持ちというのは何歳になってもストレスがかかったときとか、思い通りにならないときにけっこう普通にあるのかもしれない。だからといって「実家に帰らせていただきます。」と颯爽と実家に帰るのもイロイロ具合が悪いこともあるかもしれない。

海恋し 潮の遠鳴り数えては 乙女となりし 父母の家 (うみこいし しおのとおなりかぞえては おとめとなりし ちちははのいえ)

与謝野晶子の歌ですが、海沿いの、海の波の音が遠くに聞こえる実家を懐かしく思う気持ち、実家に帰ってみたい気持ちなどがこの短い一言で表現されていて、情景が浮かぶ人には浮かんでその気持ちまでもがわかるんだろうと思います。この気持ちのオオモトは「ママがいいー!」ということだろうと思います。

こうやって歌となると、社会的に拒絶はされないし、不都合もなく、むしろ人としての気持ちが素直に入って胸を打たれる人が多かったため、今に語り継がれているものです。

こういうムキ出しの感情や本能的なものを消化して本人にとっても周囲にとっても破壊的なものから、強いメッセージ性を帯びるものに変換させるもの、これも目に見えないのですが、ここでは「情操」と呼びます。

絵本に触れたり、子どもたちに読み聞かせる大きな意味は、子どもの情操の芽を育んでいく、大人の情操への橋渡しをする、ということだと思います。

アメリカで大規模調査が行われました。知能(IQ:Intelligence Quotient=インテリジェンス)が優れている人がいい暮らしをしているのか、情操(EQ:Emotinal Quotient=エモーショナル)がある人がいい暮らしをしているのか、と視点での追跡調査でした。スタートはそういう目的ではなかったのですが結論として情操がある人がその後の暮らし向きがよかった、という結論でした。

ざっくり書いてるので一部不正確です。










積み木活動の意味

  • 2021/06/02
シンデレラのお城。出ました、素晴らしいですね。

積み木活動の意味を、四つに分けて述べたいと思います。

積み木活動をする意味のひとつめは、失敗する(崩れてしまう)可能性があるから、です。もちろん失敗は許容したうえでのことです。

普通のブロックだとくっついてくっつけて、失敗の可能性がないです。積み木であれば崩れてしまわないようにお友達同士注意して積み上げていかないといけません。だから積み木活動に参加すれば自動的に当事者として自他に注意しながら積み上げていく必要があります。

仮に途中で崩れてしまったら、もう一度同じものを最初からやり直すか、視点を変えて別のものを展開するか、そこでも子どもたちは考え話し合わないといけません。落ち込んでも気を取り直さないとまたチャレンジできない。子どもたちへの意識的な勇気づけのチャンスも生まれます。

これだけとっても、注意力、コミュニケーション、葛藤解決、集中力、根気などという目に見えない部分の栄養になる活動になります。

積み木活動の意味ふたつめは、これが一番私にとっては積み木活動の意味だと思いますが、小さな決まった形のピースをひとつひとつ積み上げること、で発せられる、いわば積み木そのものから子どもたちが受け取るメッセージです。これは何でしょうか。

積み木ひとつをひとつひとつ積むことそのものは、小さな子もできることですが、この普通のことを積み上げていくことでコトは発展していって、写真にあるようなシンデレラ城などが出来ていく。

これはいろんなことにそのままあてはまることでもあります。
遊びしても仕事にしても、スポーツにしても芸術にしても、工業製品の開発にしても行事にしても、語弊があるかもしれませんが、ほとんど普通の人が普通のことを積み上げた結果でもあります。

私たちは結果の部分を見て、例えばすごいスマホの新機能が出た、すごいスポーツ選手が出た、すごい作品を作る天才が出た、めちゃくちゃ仕事ができる、めちゃくちゃ勉強ができる、ダンスがとても綺麗で感動した、いろんなことに心を動かされ感動し、多かれ少なかれそこにある種の特別感を見出すのですけど、その裏は地道な地味な当人や関係者の目立たない、長い時間をかけての努力や作業の積み重ねが存在している場合はほとんどです。

少なくとも、保育教育関係者はこのことを熟知していると思いますし、私のような立場の者は、写真や動画に出てこないような、表立って見えないような、目立たない関係の人たちの取り組みや工夫、地道な努力といった集積で園の子どもたちの活動が成り立っていることを直視する必要があります。

積み木活動はそのようなこととベクトルが同じメッセージを体感させる活動だと考えています。ただ積み木の活動は子どもたちにとって楽しくイメージを伴う活動なのですが。

積み木活動の意味みっつめは、学習指導要領にあるとおり、小学校に入学して計数・形の感覚、算数の土台になる力ですね、これをストレートに育むこと。

2×4=8、積み木を二つずつ4つ並べれば体感できます。
逆にかけ算を習っても、これを積み木で表現できないのなら、本当にはわかっていないのかもしれない、因数分解などの時につまづく、どうしてつまづいたんだろう?となりませんか。

割り算なら机の上の積み木のかたまりが全部で何個あって3つずつ順番に取り分けていくと、〇〇÷3は?を体感していることになります、答えは3個のカタマリをいくつあるか数えればよい。

ところがこういう体験が不足して、こういう個物の操作が満足にできないのに、算数の世界、数学の世界に入っていくとどうなるか。

積み木活動のよっつめは、積み木があるところには、クラスの様子の一部分、そこにいるクラスのお友達の人間関係が少し垣間見えるように思います。

競合的なお友達関係のクラスなら誰かが積んでも誰かがその積み木を壊してしまうかもしれません。

積んでいる積み木を誰も壊さないのだとしたら、ケンカばかりしている子がいたとしても、クラスの文脈を本当はわかってて、ケンカは大人に対する何かのメッセージであって、その子が特別乱暴な気質を持っていると判断しない方がいいのではないか、などと検討もできることになります。

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